陸の孤島・浦安
●浦安の交通手段(こうつうしゅだん)
 明治(めいじ)42年(1909)に戸数(こすう)1,580戸、人口8,475人になり、その年の9月1日に浦安村から浦安町へとかわりました。
 
 むかしの浦安は「陸(りく)の孤島(ことう)」なんてよばれるくらいふべんな場所だったんですよ。
 
 昭和(しょうわ)15年(1940)までの浦安は、市川(いちかわ)や千葉方面(ちばほうめん)へ向かう道はありましたが、東京に行くには、渡(わた)し船を使って、江戸川を渡らなければならなかったのです。
 
番船・一割船
▲番船・一割船(ばんぶね・いちわりぶね)
 魚介類(ぎょかいるい)や、生活に必要(ひつよう)なものは江戸時代(えどじだい)から番船(ばんぶね)や一割船(いちわりぶね)にのせて浦安と東京を行き来していました。
 
 昭和(しょうわ)15年(1940)2月、葛西(かさい)と浦安の間の旧江戸川(きゅうえどがわ)に浦安橋がかけられました。
 
 浦安橋ができたことで、前より東京が近くになりましたが、東京から浦安に来る人は少なく、くらしぶりは前とあまりかわりませんでした。

浦安橋の開通式渡り初め
▲浦安橋の開通式(かいつうしき) (わた)り初(ぞ)
3連橋の浦安橋
▲3連橋(れんばし)の浦安橋
 
● 実現(じつげん)しなかった総武線(そうぶせん)
 昭和(しょうわ)のはじめ、総武線(そうぶせん)を東京から浦安をとおして千葉まで引く計画(けいかく)がありました。しかし、しずかな漁師町(りょうしまち)の人々にとっては大きな問題となりました。電車を引くことで土地がとられるとか、そうおんがうるさいといった理由(りゆう)で実現(じつげん)しませんでした。その結果(けっか)、長(なが)い間「陸(りく)の孤島(ことう)」とよばれました。